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スペクトラム・ダダ・ナイト(2016年8月6日)

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↑「スペクトラム・ダダ・ナイトのための7つのスコア」ブロックを読み上げながらパフォーマンスが行われた。

 

スペクトラム・ダダ・ナイト
2016年8月6日(土) スパイラルカフェ
開演 20時15分

 

プログラム
1部
1.フーゴ・バルとガジ・ベリ・ビンバ
2.ハンス・アルプと偶然のメタモルフォーゼ
3.ハンナ・ヘーヒとフォトモンタージュ
4.クルト・シュビッタースと談話によるメルツバウ
5.高橋新吉 日本で最初のダダイスト


休憩(10分)
*セッティングのため、一部のお客様にお席の移動をお願いすることがあります。

2部
6.トリスタン・ツァラとダダでない、ダダでなくない宣言
7.リヒャルト・ヒュルゼンベック ダダよ永遠に

 

本プログラムでは、カフェ内の複数の場所で同時多発的にパフォーマンスが行われます。お席から見づらい場合は他のお客様に迷惑がかからない範囲で、見やすい場所へ移動してくださってかまいません。また、上演中の飲食のご注文も承ります。

途中の休憩で2部のセッティングを行います。中央付近のお客様にはお席の一時移動をお願いすることがあります。あらかじめご了承ください。

 

出演
パフォーマンス カニエ・ナハ、橘上、河野聡子
ピアノ     久保田翠
映像      佐次田哲
アナウンス   関口文子
ディレクション 山田亮太

 

 

ダダ100周年フェスティバル + SPIRAL 「GALLERY VOLTAIRE」
会期:2016年8月4日(木)—8月28日(日)(※8月15日—17日スパイラル全館休館)
会場:スパイラル 東京都港区南青山5-6-23
(スパイラルエントランス、MINA-TO、スパイラルカフェ、スパイラルホール)
URL:ダダ100周年フェスティバル 公式サイト http://dada100.jp
スパイラル「GALLERY VOLTAIRE」サイト http://spiral.co.jp/dada
主催:株式会社ワコールアートセンター
後援:スイス大使館
企画制作:スパイラル

 

 

***

本パフォーマンスプログラムは2016年8月6日、無事終了致しました。ご来場くださったみなさま、ありがとうございます。ツイッターで拾った感想を「ダダでない、ダダでなくない展」と合わせてこちらにまとめてあります。
スペクトラム・ダダ・ナイトとダダでない、ダダでなくない展@スパイラル
また、詩人のヤリタミサコさんがご感想を送ってくださいました。公開許可をいただきましたので、転載します。

 

「スペクトラム・ダダ・ナイト」
ヤリタミサコの感想

 

最初は「いったい何が始まるのだろうか?」と遠巻きに見物するつもりだったのに、関口さんのクールなアナウンスが3つ目くらいになったときに、すでに心をすっかり持っていかれていることに気づきました。

観客として始まるのを待っているのではなく、関口さんが箱を開けてインストラクションを読み上げると同時に、自分の内部でも何かが始まっているのです。パフォーマーたちの動きと同時進行で、予想外の自分自身の反応も発生しています。

例えば「30秒でダダ的な何かをしなさい」というインストラクションが最後まで読み上げられる前に、自分の中に会場のスパイラルカフェにダダ星人の白黒の縞模様が重なったイメージが瞬時に湧き上がった、と思ったら、カニエ・ナハさんがティシュをまき散らし、山田亮太さんが突進してきて、中也像に氷ごとアイスティーをぶっかけた、わけです。たぶんほんの数秒間の力動なのですが、一瞬にして空気中に真空空間か、突然の4次元空間が発生したかのようです。

視覚的にはきちんとこの間の動画を追っているのですが、心はこの渦の中に巻き込まれています。心の映像は切れ切れになり、事故にあって壊れたカメラのように、激しくぶれたり、全体像が見えないほどアップがあったり、最後は中也像と氷の衝突で止まってしまった、ということです。

そのひとつ前の「クルト・シュビッタースと談話によるメルツバウ」でも、マイクに向かっているパフォーマーたちがオリンピックや日常的な話題を語っている中にいると、観客はそれぞれ、そうそう、とうなずいたり、笑ったり、集団おしゃべりに参加していました。そうは見えませんが、完全観客参加型だったと思います。つまり、観客も当事者として入り込んでしまっているのですね。
ここでは、河野聡子さんが外部との電話通話で、自分たちのおしゃべりの時間軸とは違う時間軸を同時進行させていたのが興味深いです。

このイベント全体の中で、いくつもの時間が現れては消え、同時多発的に複数の時間の断片や時間スケールが発生していたのが、一番興味深かったです。
21世紀のダダとは、既成の美学の否定とか常識の破壊ではなく、時計に縛られている世界の時間を自由に操ったり、切り刻むことなのかもしれない、と思いました。

1916年のフーゴー・バルの音声では、20世紀初頭の時間の断片が提示され、「ハンナ・ヘーヒとフォトモンタージュ」では、言語や音、身体的行為、などばらばらなパフォーマンスが、それぞれの時間のスケールで進行します。
それぞれに速度も表示も計測も違っている時計が多数、同時に進行しているようです。

最後に読まれた橘上さんの「西くん」の詩で、これらの時間軸が日常の生活時間軸に収斂されていったのも、終わりのやり方としては落ち着きのよいやり方だったと思います。
それまでのばらけていた時間軸を、帰り道の電車の時間に接続できる方法です。

シュルレアリスム以前のダダの力動を充分に感じました。
自分の中のダダ的な欲求が、このイベントで満たされた感じです。

 

 

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